超解芭蕉野ざらし紀行

野ざらしを心に風のしむ身哉

 着の身着のまま長旅よ。無我に到った古人に惹かれて、江戸のおんぼろ屋を飛び出してはみたが、秋風の冷たさに思わず、
「行き倒れを決意したんじゃが、今日の風は身に染みるぜ」
とつぶやいた。もはや後悔あとを絶たず、弱気になるばかり…
「出府して秋も十回目を数えると、江戸が故郷になってしもたんじゃ。」

霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

 箱根を越える日は雨まで降りやがって、視界が悪い。憂さ晴らしに言い放ってやったわい。
「霧雨に隠れた富士というのもええもんじゃのう。」
 一緒に旅をする千里は頼りになる奴じゃが、
「江戸深川の芭蕉は富士山に預けて行ってしまおう」
などと言いやがる。

猿を聞人捨子に秋の風いかに

 富士川のほとりに来ると、捨て子が悲しい声で泣いとった。急流に投げ込むよりはと、親は露の命を与えたんじゃろうが、ワシは行く末を案じながらも、物を投げ与えてやることしかしてやれん。
「哭き喚く猿と思えば済むもんかのう。おまえはどう思うぞ?」
 問うても風は過ぎ行くばかり。
 小僧よ、父も母も恨むじゃないぞ。これが天命、己の運命と嘆け。

道のべの木槿は馬にくはれけり

 大井川を越える日はずっと雨じゃった。千里が
「この雨は、我らを江戸に連れ戻すために、大井川が指示して降らせたものでしょう」
と言う。ワシは、花をむさぼり食う馬の上で、
「道端にようやく咲いた一朝の夢さえも食われてしもた」
と嘆いた。

馬に寝て残夢月遠し茶の煙

 半月が東の空に漂いはじめても、辺りは暗い。鶏の声も聞かんまま馬上に夢を追いかけ、気付けば小夜の中山。
「茶の煙は罪よの。覚醒させて、道の遠さを知らしめやがる…」

蘭の香や蝶の翅にたき物す

 伊勢の知り合いを訪ねて、十日ばかり居座った。ただ、丸めた頭が僧侶の類じゃと言われて、神宮の参拝が許されんかった。それで、灯籠に火が灯る頃に、闇に紛れて外宮に行ったんじゃ。いざ、西行が歌った神聖な風にあたってみると、
「暗い月末をいいことに、古杉と嵐が交わってやがる」
と、心に潜む悪い奴が叫ぶがな。
 西行谷を下ったところまで来ると、芋男の相手をしよる女たちが居る。
「西行ならば、歌をうたってやり過ごしただろうに…」
 そう思ったんじゃが、堪らずそこに立ち寄った。すると、蝶という名の女がおって、下着にしとった絹をよこす。そこで、
「蝶の可憐に舞う姿を見て、この蘭はモヤモヤしてしもた」
と書いてやったんよ。
 そんなことには興味ない男の家に着くと、奴は、嫁さんに四、五人の男を充てがって隠居しとった。そこでこう詠んだんよ。
「蔦植て竹四五本のあらし哉」

手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

 故郷に着いたんは長月の初めじゃった。亡くなったお袋の面影は一掃されて、昔とはずいぶん変わってしもた。兄弟は眉間に皺寄せ、「生きとったんか」言うし。
 守袋に入った母の白髪を、この浦島太郎に拝ませてくれた時には泣けてきたが、やがて現実に立ち返ってつぶやいた。
「分厚い秋の霜であっても、手に取れば消えてしまうもんよの。涙もすっかり乾いてしもた。」

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

 さらに大和国まで歩いて、千里の故郷の葛下郡竹の内に数日滞在したんじゃが、きぬ擦れの音も恋しくこう詠んだ。
「竹の里の寂しいことよ。綿を打つ音を琵琶に聞きなさにゃいかんとはの…」

僧朝顔幾死かへる法の松

 千里の実家の近くの二上山當麻寺に参拝して、古い松の大木を拝むと、荘子の一節が思い出された。つまり、伐採されずに生き残ったんは、盆暗じゃったからこそ。
「これぞ仏の導きというもんよ。平凡に徹するこの松は、刹那の栄華に生きた僧や朝顔をどれだけ見送ってきたんじゃろか…」

碪打て我にきかせよや坊が妻

 千里と別れて、一人で吉野の奥に行ってみたんじゃ。山深いところでな、峰に雲がかかって、谷では霧雨が降りよった。ここに居るもんは小さな家に住んで、木を伐る音を西から東に轟かせながら生活しとる。そんな中に寺院の鐘が鳴りよって、心にずしんと響いてきたわい。昔から、ここにたどり着いた世捨て人は、詩歌に現実逃避して生きてきたんよ。唐の廬山のような場所じゃからな。
 それでワシも、宿坊に泊まって詠んでみた。
「一晩宿を貸してくれたお前さんよ。孤独なワシのために、脱いだ服の皺を、叩き伸ばしてはくれまいか。」

露とくとく心みに浮世すゝがばや

 西行庵は、愛染宿から右へ二百メートルほど入ったところ。向こうは谷深く、柴を刈るためにわずかに人が行くだけじゃ。しかし、西行が歌うた清水は当時のままで、今も変わらず「とくとく」しよった。もし、日本に伯夷が居たならこの水で口をすすぎ、許由なら耳を洗って、自らを糺したことじゃろう。
「ワシもここに来て、西行のように俗世を離れようと試みてはみたんじゃが、悲しいの、涙がとくとくと溢れるばかりじゃ…」

秋風や藪も畠も不破の関

 山を登って坂を下ると、秋の日が既に傾いとった。仕方ないから、数々の名所を差し置いて、後醍醐天皇陵だけを拝んでこう詠んだ。
「時を経て生じた忍草よ、墓に絡みついて何を隠しとんじゃ?」
 大和から山城国を経て、近江路をたどって美濃に入った。今須宿から山中を過ぎたところにあった常磐御前の墓を見ると、その夫の源義朝のことが頭から離れんなって、荒木田守武が「秋風は義朝に似ている」と歌ったことが思い出された。
 一体どこが似とると言うんじゃろうかの。移り変わりやすいところが似とると言うんじゃったら寂しいの。
「義朝の心に似たり秋の風」
 いずれにせよ、義朝が越せんかったこの不破の地に、常磐御前は眠っとる。
「秋風よ、ここじゃ藪も畑もむかしのままじゃ。」

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

 大垣では、木因のところに泊まったんよ。関東を出る時には、高尚な行き倒れの旅を決意したのにな。
「死を身近に感じることのない旅に、この秋もまた暮れてゆく…」

明ぼのやしら魚しろきこと一寸

 桑名の本統寺で考えた。
「西行を雪の中の時鳥に譬えるなら、ワシは所詮、冬牡丹の藁囲いに潜む小さな鳥よのう。」
 そう思うと旅がいやになって、まだ薄暗いうちに浜の方へと出てみたんじゃ。するとチョットだけ発見があってな、こうつぶやいたんよ。
「一寸の白魚には伸びしろがあるんじゃ。それ、光が差せば、白けた部分も消えていく…」

しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

 それから熱田神宮を参拝したが、境内の荒れ様は凄まじかった。小社は縄で指し示し、その中に石を置いて磐座にしとる有様。蓬や忍草が生え放題じゃったが、ワシは、かえってそこに惹かれたわい。
「偲ぶ気持ちもなくなって、今日食う餅を買うて気付いたんじゃ。これぞ、ついに旅が栖になった証拠やで。」

草枕犬も時雨るかよるのこゑ

 名古屋に入る道でふと思た。
「西行の道を志したが、ワシは今、オンボロ竹斎の道をたどっとる。」
すると何だか吹っ切れて、
「旅の空にあっては、夜の声を恐れて犬でも泣くもんぞ」
と、何もかも同類に思えてきたわい。
 雪を見に出歩くと、旅のことなどどうでも良うなって、
「町の衆、この笠いらんかね?旅先で雪が降っても安心じゃ」
と、必需品で商売よ。けれども足留された旅人を見るに、
「雪の朝というもんは、馬でも立往生するもんじゃからな」
と、何もないまま夜を迎えて、海辺に佇みこう詠んだ。
「凍り付く夜の海に温もりを見た。鴨のガヤガヤ言う声が、蒸気となって道を照らすがや。」

誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年

 荷を解いたんは年末。道の途中でな、
「旅行姿で年が暮れてしもたわい」
とつぶやいたんよ。しかし実は故郷におっての、久しぶりの賑わいに触れたんじゃ。これが家族の温もりちゅうもんかいの。
「誰かの婿殿になった気分じゃ。正月飾りの中で迎えたこの丑年は。」

水とりや氷の僧の沓の音

 正月も過ぎて、奈良に出る道では
「春になれば、名前のない山ですら霞がかって神秘的になるもんぞ」
と詠んで、名もなき芭蕉、二月堂に籠ってお水取りを迎えた。
「浮寝の水鳥よ、氷を割り歩く僧侶のくつ音が聞こえてきたぞ。飛び立つときじゃ。」

我がきぬにふしみの桃の雫せよ

 それから、旧知の俳諧仲間の窮地に触れて、まずは京都の鳴瀧に三井秋風を訪ねたんじゃ。秋風は富豪の家の生まれじゃが、このところ金づるを失ってしもたんじゃと。そこで、
「梅の花は、一緒に描かれる鶴がおらんでも、白く気高く咲くんやで」
と教えてやった。さらに、樫の木に咲く花を引き合いに出して、
「手堅い人間になんぞ、風流が理解できるはずもなかろう」
と慰めてやった。
 次は、病床の任口上人を伏見の西岸寺に見舞って、
「私があとのことはやりとげますけん、この衣に思う存分涙を零して下され」
と言うて、ワシも気を引き締めたんよ。

命二つの中に生たる櫻哉

 大津に出るための峠を越えると、
「険しい道にも菫が咲いて、何か懐かしい気持ちになるもんじゃの」
と、はな歌よ。やがて琵琶湖を前に気付いたんじゃ。
「唐崎の松は長生なればこそ、散り行く花よりもぼやけとんのじゃ。」
 そして水口宿に到って、二十年来の友と昔を懐かしみながら、
「ワシら二人の中に、あの時の桜ははっきりと生きとるんぞ」
と詠んだんよ。

梅こひて卯花拝むなみだ哉

 道の途中に、去年の秋から旅をしとるという、伊豆の僧侶がおった。共に旅をしたいと言うから、
「それなら一緒に貧乏旅じゃ」
と、尾張まで付き合うた。
 この僧侶が言うにはな、円覚寺の大顛和尚が新年早々亡くなったんと。急なことで驚いて、何はともあれ、和尚に教えを請うとった其角に手紙を書いたんよ。
「梅の花の中へと旅立ったというのに、季節が変わった今、手を合わせる先には卯の花しかないんじゃの…」

牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉

 門人の杜國に、旅の成果を報告。
「遊女のお蝶にもらった土産を手に取れば、昨日のことが嘘のようじゃ。あんなに悶々としたというのに、今じゃ色気も何も白けてしもた。」
 さらに桐葉子のところで江戸に下る準備をしながら、
「もぐりこんだ花の中から這い出して来た蜂のようなもんよの」
とつぶやいた。

夏衣いまだ虱をとりつくさず

 帰り道、甲斐山中の宿では飯盛女の世話になってな、
「行駒の麦に慰むやどり哉」
と詠んだんよ。
 卯月の末に芭蕉庵に帰り着いて、四肢を投げ出しながらこう思た。
「悪い虫は取り切れんかった…」

(完) 訳:Rockets