秋の夜、古い屋敷の庭には甘い香りが漂っていました。主を亡くして三年になる屋敷でした。庭の片隅には一本の金木犀があり、毎年、秋になると小さな黄金色の花を咲かせます。そしてその年、花はすでに散ったというのに、溢れんばかりの香りに満ちていました。
「お嬢様。今夜はあの方がお帰りになるかもしれませんね。」
屋敷に仕える老女に告げられた娘は、ゆっくり静かに頷きました。
彼女は幼い頃、父から不思議な話を聞かされていました。中国の古い伝説では、月には巨大な桂の木があり、男が斧で切り続けても、傷はたちまち塞がってしまうのだと。そして、月の桂花(金木犀)が香る夜には、天と地の境がなくなり、遠く離れた者の記憶が香りとなって地上に満ちるのだと。
その夜、娘は金木犀を一枝手折り、銀の小皿に載せました。そして、父が愛用していた古い香炉に火を入れたのです。
そこに煙は立ちません。代わりに、庭いっぱいの香りが、ゆっくりと部屋へと流れ込んできます。
ふと、廊下の向こうで足音がしました。娘は振り返り、
「お父様?」
と囁きます。
誰もいません。しかし、机の上に置かれていた古い手帳が、風もないのに開いていました。そこには、父の筆跡でこう記されていたのです。
『人は、失ったものを取り戻そうとする。だが、月の桂は教えてくれる。切られた枝が元に戻るのではない。失われたものを思う心が、何度でも花を咲かせるのだ。』
香りの魔術において、佳花は遠いものを結び、失われた時間を心に呼び戻す花とされます。けれど、その香りが最後に教えてくれるのは、再会の奇跡ではありません。
人は、忘れることでしか前へ進めないのではない。忘れられないものを胸に抱いたままでも、歩き出せるということ———
そばに控える老女は言います。
「佳花の秘術は、死者を呼び戻すものではございません。決して葬り去れない想いに、もう一度花を咲かせる魔法なのです。」
▶ 桂花(キンモクセイ)の魔術的利用
▶ 香りが醸す物語

革命の炎が、フランスを赤く染めていました。宮殿から逃れた一台の馬車が、薄暮の中を走っています。その中には、身分を隠した一人の女性と、その家族がいました。
ある日の夕暮れ、一人の文人がその杜を訪れました。そこは、悲しみを終わらせる場所だというのです。
パリの繁栄が最高潮を迎えていた1904年。ベル・エポックの華やかな風が吹き抜ける街の片隅で、一人の男が調香室の密閉された空気のなかに立っていました。男の名はフランソワ・コティ。後に「現代香水産業の父」と呼ばれることになる人物です。
垂仁天皇の御代、宮中に一つの命が下されました。「常世の国へ渡り、非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めよ」と。
深夜のホワイトハウスには、音のない時間がありました。時計の針だけが進み、廊下の燭台が小さく揺れるのです。
唐の都、長安。宮廷の奥深く、楊貴妃はいつも小さな匂い袋を身につけていました。その、絹で仕立てられた袋の中に入っていたのは『竜脳』です。南方からはるばる運ばれてきた、白く透き通るような香料でした。
その出来事について、彼女は長いあいだ誰にも話しませんでした。それを語るようになったのは、育ててもらった祖母が亡くなって、七年が過ぎた頃のことです。
紀元前10世紀ごろ、アラビア半島の南端に女王が治める王国がありました。現在のイエメンからエチオピアにかけての地に栄えたとされるシバ王国は、軍事力ではなく「香り」によって富を築いた国家でした。
十九世紀末、シルクロードの終着点のひとつであった上海には、多くの外国人商人や宣教師、外交官が集まっていました。街には西洋から持ち込まれた薔薇が植えられ、春になると租界の庭園は甘い香りに包まれたと記録されています。