深夜のホワイトハウスには、音のない時間がありました。時計の針だけが進み、廊下の燭台が小さく揺れるのです。
その夜、東側の廊下を歩いていた使用人は、ふと足を止めました。誰かが、後ろから歩いてくる気配がしたのです。しかし、振り返っても誰もいません。確かに足音は続いているのに・・・
やがて足音は、目の前にある部屋の扉の前で止まりました。そこは、かつてエイブラハム・リンカーンが長い時間を過ごした部屋でした。
使用人は恐る恐る扉を開けました。もちろん、部屋には誰もいません。それなのに、空気だけが妙に冷たく感じられたのです。
その時です。何かの香りがしたような気がして、使用人はゆっくりと息を吸い込みました。しかし、何もありません。花の香りも、香水も、煙草の匂いも・・・
ただ、何もないはずの空気の中に、「誰かがいる」という感覚だけが残っていました。
後に、香りの魔術を研究していた老人が、この話を聞いてこう言ったそうです。
「それは、香りが消えたのではありません。香りになる前の記憶が、そこに残っているのです。」
老人によれば、人間が記憶を呼び起こす時、最も強く働くものが嗅覚なのだそうです。ある者が薔薇の香りを嗅げば、何十年も前の庭を思い出します。別の人は、古い木の匂いから亡くなった人の部屋を思い出します。
では、リンカーンほど多くの人々の記憶の中にある人物ならば・・・
彼の香りを覚えている者がいなくなったとしても、彼が生きた部屋には、彼を思い出すための「場」が残されています。そしてそこには、香りなき香が立ち込めるのだと。
老人は言います。
「人間の記憶そのものが、彼の香りになるのです。」
その夜、使用人はもう一度、誰もいない廊下を振り返りました。すると一瞬だけ、冷たい空気の中に何かを感じました。それは、花でも木でも香水でもありません。使用人には、それが香りなのだと思えました。リンカーンという一人の人間が、この場所に残していった名前のない香り———
香りの魔術では、香りは「存在を呼ぶもの」と考えられることがあります。けれど本当の役割は、存在そのものを呼び戻すことではありません。記憶をそこに留め置くこと・・・
「そのために人間は呼吸しているのですよ」
と、老人は悪戯っぽく笑うのでした。
▶ 香りが醸す物語
