唐の都、長安。宮廷の奥深く、楊貴妃はいつも小さな匂い袋を身につけていました。その、絹で仕立てられた袋の中に入っていたのは『竜脳』です。南方からはるばる運ばれてきた、白く透き通るような香料でした。
指先で砕けば、たちまち鋭く清らかな香りが立ち上ります。
それを楊貴妃に贈ったのは、玄宗皇帝です。皇帝は、この小さな香料に自分の想いを託しました。楊貴妃は、その意味を理解していました。だから竜脳を匂い袋に納め、衣の内側に忍ばせたのです。
それ以来、彼女はその袋を肌身離さず持ち歩きました。目覚めるとまず香りを確かめ、宮殿を歩くときも宴の席に座るときも眠りにつくときも、胸元には必ず竜脳がありました。
やがて宮中では、楊貴妃と竜脳の香りが結びついていきます。彼女が近づけば、かすかな清涼感が漂う。彼女が去ったあとには、その香りだけがしばらく残る。玄宗にとってそれは、楊貴妃の姿そのものになりました。
人は、目で見たものよりも香りによって強く過去へ連れ戻されることがあります。香りには姿がありません。だからこそ、記憶の中へ直接入り込むことができるのです。楊貴妃はそれを知っていたのでしょう。
彼女は、美貌だけで皇帝を惹きつけたのではありません。自分がいなくなったあとにも、皇帝の中に自分を残す術を知っていたのです。
そして、運命の日が来ました。安史の乱———長安は揺れ、宮廷は崩れ、玄宗と楊貴妃は都を離れなければならなくなりました。
かつて豪華な宮殿を埋め尽くしていた宝物が、彼女の手元から次々と消えていきます。けれど、ひとつだけ残ったものがありました。胸元の匂い袋です。楊貴妃は、それだけは手放しませんでした。
逃避行の途中、彼女は何度もその袋を握りしめたことでしょう。指先に触れる小さな袋。その中にある竜脳。
世界は崩れていっても、香りだけは失われません。やがて楊貴妃の人生にも終わりが訪れます。その最期に、彼女が何を考えていたのかは誰にも分かりません。けれど、胸元には最後まであの匂い袋がありました。
竜脳は、愛を守るための香りでした。しかし同時に、それは失われた愛を閉じ込める香りでもありました。
人は愛する者を、永遠に自分のそばへ置くことはできません。姿は消えます。声も消えます。触れた感触も、やがて記憶の底へ沈んでいきます。
それでも香りだけは残る———ほんの一片の竜脳があれば、失われた時間が再び立ち上がるのです。だから楊貴妃は、竜脳を身につけました。
それは、美しく見せるためではありません。玄宗の心から、自分の存在が消えないようにするため。やがて匂い袋が燃やされても、長安の夜と、玄宗の愛と、ひとりの女性の美しい生涯を、香りの記憶として永遠に残すためだったのです。
