なげきの杜のうた

香りなき香りを纏ったリンカーンの記憶ある日の夕暮れ、一人の文人がその杜を訪れました。そこは、悲しみを終わらせる場所だというのです。

彼にはどうしても忘れられない人がいました。亡くなった妻です。妻の手の中に残っていた瓶は、もうわずかしか香水を残していません。何度香りを嗅いでも、記憶は少しずつ遠ざかっていくようでした。
「香りは亡くしたものを蘇らせる・・・」
師から教わった言葉を呟き、聳え立つ木々を見上げました。

そのとき、風が吹きました。楠の葉が擦れ、かすかな青い香りが降りてきます。
彼は目を閉じました。すると、妻と歩いた道の匂いがしたのです。雨上がりの庭、表の老木、そして、妻の髪に残っていたかすかな花の香り———杜の樹間から零れ落ちる涙は、悲しみを香りに変えて風の中へと溶かしていきます。

彼は気づきました。
「あの確かな存在は、決して消え去ることなどない・・・」

過去とは、香りによって書き換えられるものではありません。しかし香りは、沈んだ過去を断ち切り、立ち昇る未来へと導いてくれるのです。

かれにけり人のこころの秋風に はてはなげきの杜のことの葉
                 藤原秀成(新続古今集)

鹿児島は霧島の山裾に、「なげきの杜」と呼ばれる場所があります。ここに鎮まる蛭児神社には、伊邪那岐命と伊邪那美命の間に最初に生まれた御子神蛭児尊が祀られています。
整わぬゆえに流された蛭児尊の天磐楠船はこの地で根を張り、「なげきの杜」になったと伝わります。古くから多くの和歌に詠われ、現在でも楠の大木に覆われた杜として、神秘的な香りを漂わせています。


▶ 香りが醸す物語
舞香亭幻想香炉
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