【舞香亭日誌】幸福感を得たい者へ

「幸福感を得たい」という男がやってきた。その顔には、何かを手に入れれば幸せになれると信じながらも、手に入れたものさえ、いつか失うのではないかという不安が滲んでいる。彼は言う。「幸福を呼び寄せ、満たされた人生にする香を調合して欲しい」と。

私は知っている。幸福とは、外から与えられるものではない。財も名誉も愛も、手に入れた瞬間から人は、次の何かを欲し始める。だから私に、幸福を呼び寄せる香は調合できない。

調合するのは、手の中にあるものに気づくための香。足りないものを数える心を鎮め、ありふれた一日の中に、小さな光を見つけるための香り。

この香を焚いても、何か特別なものを授けてくれるものではない。ただ、すでに与えられていたものの美しさに気づかせてくれる。
幸福とは、遠くからやって来る奇跡などではない。気づいた者の足元に、いつも静かに咲いている———
舞香亭幻想香炉

幸福を見つけるための香

外から幸福を呼び寄せるためではなく、すでに与えられている幸福に気づくための薫香。
幸福とは、願ったものが手に入った瞬間だけに宿るものではない。欲望を追い続ける心は、どれほど満たされても、また次の何かを求める。この香は、足りないものを数える心を鎮め、今ここにある小さな恵みを見つめ直すために調合される。

準備材料

調合手順

  1. 【心に光を入れる】
    乳鉢へオレンジとコリアンダーを入れ、ゆっくりと細かく砕く。香りを感じながら、「私は幸福を追わず、幸福に気づく」と三度唱える。
  2. 【愛と美を重ねる】
    ローズを加え、全体が一つの香りになるまで静かに擦り合わせる。この時、手に入れたいものではなく、すでに自分の周囲にある人、場所、記憶を思い浮かべる。
  3. 【心を整える】
    ベンゾインとサンダルウッドを加え、さらに丁寧に混ぜ合わせる。幸福を未来へ探しに行くのではなく、「今、この瞬間にも幸福は存在している」と心の中で唱える。
  4. 【静かな熟成】
    小さな円錐形、または団子状に成形し、風通しの良い日陰で十分に乾燥させる。乾燥する間は願い事を増やさず、一日の中で「嬉しかったこと」「美しいと感じたこと」を一つだけ思い出す。

燻らせ方の心得

「幸福は、遠くから訪れるものではない。気づいた者の足下に、すでに存在している。」

  1. 香に火を入れ、炎を静かに吹き消す。立ち上る煙を追わず、その揺らぎをただ眺める。幸福を掴もうとするのではなく、そこにあるものを眺める心をつくる。
  2. ゆっくりと呼吸しながら、今日一日の中で与えられた小さな恵みを三つ思い浮かべる。誰かの言葉でも、食事でも、朝の光でもよい。大きな幸福を探す必要はない。
  3. 最後に心の中で、「願うは、さらなる幸福にあらず。我が手にある幸福を知る心なり」と唱える。香が燃え尽きる頃、欲望によって狭くなっていた心には、ほんの少しの余白が生まれている。その余白こそが、幸福を感じるための場所となる。

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香りの魔術百科
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常世の国から届いた不老不死の香り

非時香菓垂仁天皇の御代、宮中に一つの命が下されました。「常世の国へ渡り、非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めよ」と。

常世の国。それは海の彼方にあるとされる、時の流れから切り離された国でした。そこには老いも死もなく、枯れることのない草木が生い茂り、神々に近い者たちが暮らしていると信じられていました。
そして、その国に「非時香菓」と呼ばれる果実があるというのです。その名の意味は、「時を選ばず香る果実」。ただ香り高いだけの珍しい果実ではありません。いつでも実り、いつまでも香り、食した者に永遠の命を与える不老不死の霊果———

田道間守(たじまもり)は船を用意し、海へ出ました。そして、どれほどの年月が過ぎたのか分かりません。ただ、宮中では季節が幾度も巡りました。春になれば花が咲き、夏になれば草木が茂り、秋には葉が落ち、冬には雪が降りました。
やがて彼は、海の果てにある常世国へ辿り着きます。そこでは、時間そのものが違っていました。草木は季節を知らず、花は散ることを恐れず、非時香菓は時を待つことなく香っていました。

田道間守はその枝を手折り、果実を得ました。そして、それを持って再び海を渡ったのです。
長い旅の末ようやく大和へ戻った時、彼は、八つの竿に八つの枝を結びつけていました。しかし、そこで田道間守が知ったのは、垂仁天皇がすでに崩御されていたという事実。

田道間守は天皇の御陵へ向かいました。手には非時香菓。そこからは、あの甘く清らかな香りが漂っていました。しかし、その香りを嗅ぐべき人はもういません。
田道間守は嘆き悲しみ、やがて天皇の後を追うように亡くなったと伝えられています。

こうして不老不死の実は、誰に不老不死を与えることもなく、古代の物語の中へ消えていきました。けれど、非時香菓の名は残りました。
そして後世、この霊果は橘と結びつけて考えられるようになります。冬にも葉を落とさない常緑の姿。春に咲く白い花から漂う清らかな香り———それはまさに、常世国にある不老不死の果実を思わせるものでした。

香りの魔術において、非時香菓とは「永遠を呼び寄せる香」です。老いを止めるためだけではありません。愛する者の記憶を消さず、願いを朽ちさせず、過ぎ去った時間の向こうへ香りを届けるための香です。
古代の人々が海の彼方に探した不老不死の実。その実はもしかすると今も、目には見えない香りとなって、静かにこの世に残っているのかもしれません。


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