厄除けの香りを求めて、一人の男がやってきた。その顔には、目に見えぬ災いに怯える者が持つ、張りつめた気配があった。彼は言う。
「降りかかる災いを払い、心に余裕をもたらす香を調合して欲しい」と。
私は知っている。災いとは、外部からだけやって来るものではないと。人は災いを恐れるあまり、まだ訪れてもいない明日を疑い、その疑いによって今日という時間まで曇らせてしまう。
そして、いかなる香りも、定められた出来事そのものを消し去ることはできない。
だから私に、災いを消し去る香は調合できない。調合するのは、災いに心を奪われぬための薫香。恐れを手放し、身の内に静けさを取り戻し、何が起ころうとも自らの足で立ち続けるための香り。
この香を焚けば、恐れに支配されていた心にひとつの余白が生まれる。そしてその余白こそが、災いを転じる覚悟となるのだ。

災いを転じる覚悟の香
災いそのものを消し去るのではなく、何が起ころうともそれを静かに受け止めるための薫香。「厄」とは、必ずしも外から降りかかるものではない。恐れに心を支配された時、人はまだ訪れていない災いまでも自らの内に招き入れてしまう。この香は、恐れに奪われた心にひとつの余白をつくり、その余白を災いを災いだけで終わらせない覚悟へと変えるために調合される。
準備材料
- サンダルウッド(調合比3):大地のような安定を与え、外から訪れる災いに心を揺らされぬための聖木。
- フランキンセンスの涙滴(調合比2):恐れや不安を静め、目に見えぬものに心を奪われないための神聖な樹脂。
- サイプレス(調合比2):生と死、災いと再生、その境界に立ち、変化を受け入れるための樹。
- シダーウッド(調合比1):古くから守護と勝利に結びつけられ、困難に屈しない意志を象徴する樹。
- パチュリ(調合比1):大地を思わせる重厚な香り。先の見えない不安から意識を引き戻し、「今ここにいる」という感覚を取り戻させる。
- ローズウォーターまたは蜂蜜(少々):香りを調和させ、張りつめた心に柔らかな余白を生み出すための結びの媒介。
調合手順
- 【恐れを鎮める】
夜の静かな刻、乳鉢へサンダルウッドとフランキンセンスを入れ、ゆっくりと細かく砕く。この時、「恐れは未だ来ぬ災いを呼ばず、我は今ここに在る」と三度唱える。 - 【厄との境界をつくる】
サイプレス、シダーウッド、パチュリを加え、香りが一つになるまで静かに擦り合わせる。災いを遠ざけようと願うのではなく、災いが訪れたとしても、それに呑まれない自分の姿を思い浮かべながら混ぜること。 - 【余白を宿す】
ローズウォーターまたは蜂蜜を少しずつ加え、全体を丹念に練り合わせる。形を整えながら、「願うのは災いの消滅ではなく、災いを受け止める覚悟」と心の中で唱える。 - 【静かな熟成】
円錐形、または小さな団子状に成形し、風通しの良い日陰で七日間乾燥させる。乾燥の間は災いを想像せず、ただ自分の心から恐れが少しずつ離れていく様子を思い描くこと。
燻らせ方の心得
「災いを恐れる心を鎮めよ。余白ある心には、災いさえ道となる。」
- 火を灯した後、炎を静かに吹き消し、立ち上る煙を見つめる。煙が揺れても追わず、災いを追い払おうとするのではなく、ただその流れを受け入れる。
- ゆっくりと息を吸い、長く吐く。そのたびに胸の中にある恐れや不安が煙へ溶けていく姿を思い描き、心にひとつの余白をつくる。
- 最後に心の中で、「願うは災いの消滅にあらず。我が心に覚悟を」と唱える。香が燃え尽きる頃、厄を恐れていた心は静まり、残るのは、何が訪れようともそれを受け止め、災いを別の道へと転じる静かな覚悟である。
唐の都、長安。宮廷の奥深く、楊貴妃はいつも小さな匂い袋を身につけていました。その、絹で仕立てられた袋の中に入っていたのは『竜脳』です。南方からはるばる運ばれてきた、白く透き通るような香料でした。
その出来事について、彼女は長いあいだ誰にも話しませんでした。それを語るようになったのは、育ててもらった祖母が亡くなって、七年が過ぎた頃のことです。
紀元前10世紀ごろ、アラビア半島の南端に女王が治める王国がありました。現在のイエメンからエチオピアにかけての地に栄えたとされるシバ王国は、軍事力ではなく「香り」によって富を築いた国家でした。
十九世紀末、シルクロードの終着点のひとつであった上海には、多くの外国人商人や宣教師、外交官が集まっていました。街には西洋から持ち込まれた薔薇が植えられ、春になると租界の庭園は甘い香りに包まれたと記録されています。