魔の香水 シャネル No.5 誕生の秘密

シャネル No.51920年の秋、ガブリエル・シャネルはある男をモスクワから呼び寄せました。

エルネスト・ボー。帝政ロシアの宮廷に香りを納めていた調香師です。革命によって故郷を失い、南フランスのグラースに流れ着いていた彼に、シャネルは言いました。「これまでにない香水を作って欲しい」と。女の匂いではなく、女そのものの匂いを、と。

ボーは翌年、いくつかのサンプルを持参しました。番号だけが振られた無名の小瓶たち———シャネルはひとつひとつを嗅ぎ、迷わず5番に手を止めました。

それが「No.5」の誕生です。


ボーがこの香水に仕込んだのは、前代未聞の素材でした。「アルデヒド」と呼ばれる合成香料です。それまでの香水は花や樹脂など天然素材の再現を目指すものでした。しかしボーは違う方向に踏み込みました。アルデヒドを大量に配合することで、自然界のどこにも咲いていない花の香りを作り出したのです。

ジャスミン、ローズ、イランイランを核にしながら、その上にアルデヒドの冷たい光沢がかかる。そして、生き物の体温と鉱物のような無機質さが同居。これは香水の歴史上、初めて「幻の花」を瓶に封じ込めた瞬間でした。存在しないものを生み出す、まさしく錬金術の思想です。


シャネルはこの香水を、最初から「魔のもの」として世に放ちました。

発表の場に選んだのは、コートダジュールの高級レストランでした。彼女はボトルを持参し、給仕係に頼むことも告げることもなく、ただ通りすがりの客のドレスにひと吹きしたといいます。香りが広がり、客が振り返る。誰も何も言わなかったが、全員がその香りを嗅いだのです。これは広告でも発表会でもなく、呪いの伝播のような出来事———

名もない香りが、口コミという目に見えない経路で貴族社会に広がっていきました。「あれは何?」「シャネルの新しい何か・・・」。正式な名前さえ持たないまま、No.5 は欲望の対象になっていきました。


決定的な「魔力」が宿ったのは、1954年のことです。

あるアメリカ人記者が、マリリン・モンローに問いかけました。「寝るときに何を着ていますか?」。モンローは少し微笑んで、こう答えました。「シャネル No.5 を数滴」。

翌日からこの香水の売上は激変しました。言葉が香りに魔力を注いだ瞬間です。ボトルの中身は何も変わっていない。変わったのは、人々の想像力でした。あの瓶を開ければ、モンローの寝室の空気が漂ってくる。そんな幻想が、現実と等価になったのです。


▶ 『シャネル No.5』開発から現在まで
舞香亭幻想香炉
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