十九世紀末上海 手に残る薔薇の香り

薔薇の花束十九世紀末、シルクロードの終着点のひとつであった上海には、多くの外国人商人や宣教師、外交官が集まっていました。街には西洋から持ち込まれた薔薇が植えられ、春になると租界の庭園は甘い香りに包まれたと記録されています。

その頃、ある英国人医師が上海で診療所を開いていました。彼は貧しい人々から診療代を受け取らず、病人が回復すると、庭で育てた薔薇を手渡していたといいます。

「健康を取り戻した日のことを忘れないでください。」
それが、薔薇に添えて贈られる決まり文句でした。
ある日、診療所を訪れた中国人の新聞記者は、その光景を不思議に思い、理由を尋ねました。医師は少し笑って答えます。
「薬は身体を治します。しかし、人は希望がなければ真の意味での回復には至りません。その希望の印として薔薇を手渡すのです。」

その記事は翌週の新聞に掲載され、多くの読者の目に留まりました。数日後、一人の老人が診療所を訪れます。病気ではありませんでした。
「先生から薔薇をもらった青年が、今では私の息子の命を救ってくれました。」
老人はそう言って深々と頭を下げ、小さな花束を差し出したのです。
「これは先生のためではありません。先生から始まった親切へのお礼です。」
医師はその花束を手にしたまま、しばらく黙っていたそうです。

後年、この話を聞いた上海の教育者が、講演の中で中国のことわざを引用しました。
「贈人玫瑰 手留余香――人に薔薇を贈れば、手には香りが残る。」
彼は続けて、こう語ったと伝えられています。
「薔薇の香りは数日で消える。しかし、人に与えた思いやりは、受け取った人がさらに誰かへ渡すことで、何十年も生き続け廻り続ける。香りが手に残るとは、そういうことなのです。」

上海という東西文化の交差点では、花は単なる観賞用ではなく、友情や感謝、慈愛を伝える象徴でもありました。だからこそ、「薔薇を贈る者の手には、いつも香りが残る」という言葉は、単なる美しい比喩ではありませんでした。
善意とは、相手だけを潤すものではなく、それを差し出した側の心の中にも静かな余韻を残す――そんな人生の真理を、薔薇の香りは象徴しているように思えます。


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舞香亭幻想香炉
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