月から降りてくる佳花の秘術

佳花の秘術秋の夜、古い屋敷の庭には甘い香りが漂っていました。主を亡くして三年になる屋敷でした。庭の片隅には一本の金木犀があり、毎年、秋になると小さな黄金色の花を咲かせます。そしてその年、花はすでに散ったというのに、溢れんばかりの香りに満ちていました。

「お嬢様。今夜はあの方がお帰りになるかもしれませんね。」
屋敷に仕える老女に告げられた娘は、ゆっくり静かに頷きました。

彼女は幼い頃、父から不思議な話を聞かされていました。中国の古い伝説では、月には巨大な桂の木があり、男が斧で切り続けても、傷はたちまち塞がってしまうのだと。そして、月の桂花(金木犀)が香る夜には、天と地の境がなくなり、遠く離れた者の記憶が香りとなって地上に満ちるのだと。

その夜、娘は金木犀を一枝手折り、銀の小皿に載せました。そして、父が愛用していた古い香炉に火を入れたのです。
そこに煙は立ちません。代わりに、庭いっぱいの香りが、ゆっくりと部屋へと流れ込んできます。

ふと、廊下の向こうで足音がしました。娘は振り返り、
「お父様?」
と囁きます。
誰もいません。しかし、机の上に置かれていた古い手帳が、風もないのに開いていました。そこには、父の筆跡でこう記されていたのです。

『人は、失ったものを取り戻そうとする。だが、月の桂は教えてくれる。切られた枝が元に戻るのではない。失われたものを思う心が、何度でも花を咲かせるのだ。』

香りの魔術において、佳花は遠いものを結び、失われた時間を心に呼び戻す花とされます。けれど、その香りが最後に教えてくれるのは、再会の奇跡ではありません。
人は、忘れることでしか前へ進めないのではない。忘れられないものを胸に抱いたままでも、歩き出せるということ———

そばに控える老女は言います。
「佳花の秘術は、死者を呼び戻すものではございません。決して葬り去れない想いに、もう一度花を咲かせる魔法なのです。」


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舞香亭幻想香炉
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