お盆の沈香

お盆の沈香その出来事について、彼女は長いあいだ誰にも話しませんでした。それを語るようになったのは、育ててもらった祖母が亡くなって、七年が過ぎた頃のことです。
「本当に帰ってきたんです。」
彼女はそう言って、古びた小さな木箱を見せてくれました。

その年の夏、彼女は祖母の家でお盆を迎えていました。仏壇には、祖母が好きだった桃と麦茶。そして、生前に毎年欠かさず焚いていた線香を供えました。
ところが、仏壇の引き出しを整理していると、見慣れない箱が出てきたのです。中に入っていたのは、黒褐色の小さな香木。箱の蓋の裏には祖母の字で、
「沈香 盆に焚くべし」
とあります。
彼女は沈香についてほとんど知識を持ちませんでしたが、ただ、その香木を手に取ると、不思議な懐かしさを覚えました。

その夜、彼女は香炉を出し、沈香をほんの少しだけ焚きました。その時でした。廊下から足音がします。そして、彼女の名を呼ぶ声が聞こえたのです。
驚いた彼女は動けません。すると、背後からもう一度声がしました。
「お茶、入れてちょうだい。」
間違えようがありません。子どもの頃、祖母が何度も彼女にかけた言葉———

彼女は震えながら台所へ向かいました。そして、祖母が使っていた湯飲みに麦茶を注ぎ、仏壇の前へと戻ります。そこでは、古い椅子がほんの少し揺れていました。
「おばあちゃん?」
返事はありません。ただ、沈香の煙が、それまでとは明らかに違う動きを始め、彼女の座っている場所へと向かってきたのです。そして強い香りとともに、彼女を夢とも現ともつかぬ世界へ誘ったのです。

彼女の耳元で声がしました。
「ちゃんとご飯食べてる?」
いつも聞いていた言葉に、自然と涙が溢れてきました。

翌朝、沈香はすべて灰になっていました。祖母に供えた麦茶はほんの少し減っていました。彼女は、その出来事を「夢だった」とは言いません。
それから彼女は、お盆になると沈香を焚きます。香炉から立ち上る煙を眺めながら麦茶を供え、そして、煙が天井へ消えていく頃、
「また来年帰ってきてね」
と囁くのです。

お盆が過ぎても、沈香の香りだけは部屋に残っています。それは、二つの世界のつながりを示す見えない『糸』。
———香りは、消えた人を連れ戻すための『ロープ』ではありません。消えた人の居場所をこの世に残しておくための、『目印』となるものなのです。


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▶ 香りが醸す物語
舞香亭幻想香炉
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