名酒には名酒にふさわしい俳句があった…
其の一「龍」
店の隅っこに腰を下ろした客が、黒龍を注文した。この酒は、九頭竜川の伏流水を使用し、透明な味わいの良酒となる。黒龍酒造は昭和50年、大吟醸を流通させる初めての酒蔵となったものの、国民は、その味わいよりも当時の常識では考えられないべらぼうな価格設定に驚嘆。
しかしその酒、「龍」は生き残った。追従するものとともに日本酒の魅力を刷新し、高値の花と揶揄された時代は過ぎ去ったのだ。
「龍」は、永平寺も汲む水が昇華したもの。不酤酒戒で知られる名刹が飲酒を勧めるはずもないが、永平寺の途上にある酒蔵は賑わっている。創業は文化元年(1804年)というから、もう200年以上も門前に酒を置いてきたことになる。おそらくその魅力が、多くの雲水の流れを断ち切ったことだろう。
男も、そんな雲水の一人だったのかもしれない。法衣のような黒い上着に、よれた白シャツ。どこか近寄り難い雰囲気で、背筋を伸ばして猪口を取る。目を閉じて注ぎ込んだ酒は、一気に胃袋に落ち込んだことだろう。そうなれば人間は、酔いという魔物に現状肯定を迫られ緊張を解く。
しかし、彼は姿勢を崩さなかった。二合徳利の酒はほんの十分で空となり、再び同じ銘柄を指定したのだ。もっとも大将は、声より先に黒龍の瓶を引き寄せていたから、この情景が普段と変わりない、言うなれば夕のお勤めのようなものであると思われる。
不思議な空気が漂っていた。あては塩辛。周囲の騒ぎも遮断して、大将は自ら客の猪口に酒を注ぐ。彼はそれを一気に飲み干し、あとは手酌。ようやく酔いがまわってきたのか、酒にしか開放させなかった口が少し緩んだ。
「やっぱり酒はさけきれないな・・・」
どうでもいいような駄洒落をぽつりとつぶやき、懐にあった文庫本をぱらぱらとめくった。
古事記に、百済から渡来してきた仁番(にほ)の話が記されている。この、秦氏の祖の献上酒をいたく気に入った応神天皇は酔っぱらって、
須須許理が醸みし御酒にわれ酔ひにけり 事無酒咲酒にわれ酔ひにけり
と歌いながら、杖で大石を打ちつけた。すると大石が逃げ去ったことから、「堅石も酔人を避る」という諺が生まれた。
男が自らの駄洒落に絡めてそこまで解説すると、大将が身を乗り出してきて、
「それは、新しい酒造方法伝来の話だよ」
と笑った。酒船石のような大石を使って酒を造っていた時代の終焉を物語り、灰持酒への移行が記されていると。
日持ちする灰持酒を得たことに感激した応神天皇は、その酒を「事無酒」と呼び、仁番には須須許理(すすこり)の称号が与えられた。須須許理とは、灰(スス)の専門家(コリ)のことである。
だが、男は大将に意見する。
「違うな・・・この項は酒の有害性を説いている。」
其の二「世捨酒」
酒造の神とされるオオヤマツミの娘に、絶世の美女コノハナサクヤビメと、醜女イワナガヒメがいる。コノハナサクヤビメが皇孫ニニギから求婚された時、オオヤマツミは、コノハナサクヤビメとともにイワナガヒメをも差し出した。
しかし、ニニギはイワナガヒメを父神のもとへと送り返す。このことに立腹したオオヤマツミが、
「皇孫の命は、木の花のようなものとなるだろう」
と呪いをかけた。この件は、皇孫に不死が与えられなかった理由を説く。
イワナガヒメには、「石のように堅く動かぬ命」が約束されていた。その、オオヤマツミの誓(うけい)の部分を指し示しながら男は、
「つまり、堅石は長寿の象徴だよ」
と言った。
「堅石が逃げ去るということは、酔っ払いの命は短いということだ。」
それを知りながらも飲まずにいられぬひとの性。神性を垣間見たいとの衝動に耐え切れず重ねる杯は、人間性を崩壊させる。そして翌朝、頭痛の中に目覚めるのだ。
酒は、人には過ぎる。酒の「サ」は、沙庭(さにわ)や早乙女(さおとめ)の「サ」に等しく、神に関与するものに使われた。本来、「清けし」の意があったという。また「ケ」は、食物を表す古語である。つまり「サケ」とは、清浄な神の食物のことである。それを人が飲むということは、
「罰当たり」
と男が笑う。
しかし、罪を重ねていくことが人の常。神国を模したる現世(うつしよ)に生きるということは、おそれ多くも神の仕業を、無知なる人が盗み取ろうとすること。その行為を仏陀は「苦しみ」と言った。
この苦しみの現世にあっては、声高に語る理想さえも、有限の時空の中に消え去るものだ。神意など、永久に汲み取れぬものと悟るべし。人には只、迷いの中を徘徊することのみが許される。
江戸の世に芭蕉は、
くわのみや花なき蝶の世捨酒
と詠んだ。少し節をつけて口遊んだ男は、
「花なき世界にも酒はある」
と言って、また一杯の酒を飲む。そうして苦しみは、喜怒哀楽に変わるという・・・
其の三「餘波」
この穢土に生きるということは、苦しみを味わうこと。苦しみは天罰などではなく、喜怒哀楽の種である。同じ景色を見てさえも、感情一つでその色は万化する。出来得るものなら、常に喜びの花を咲かせたいものだが。
芭蕉は苦行者である。社会の底辺に身を委ね、宇宙を言葉に置き換えてきた。それは、苦しみを「句」にすることで、神の姿なる「美」を、人のものなる「喜怒哀楽」で照らし出す試み。つまり、世の不明を言葉で補い、神を見つめようとすることなのだ。
もっとも、それでさえも宇宙は測れぬ。個人の立場から伺える宇宙は真理の一面に過ぎず、そこで発せられた詩句など、やがて時空の狭間に消えていく。
消えゆくことを知りつつも、芭蕉は句作に専念し、「不易流行」を掲げた。果たしてそれは、苦界の歩き方を示すものとでも言えばよいのか・・・
「不易流行」とは、変化しない本質を理解した上で、新風を取り入れながら転がり続けていくこと。去来抄には「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新た成らず」とある。
句とは、ひとつなる存在を、有限の視点で切り取ること。明らかならざる全体像を、その時々の立ち位置から推し量ることに等しい。同じ場所に突っ立っているだけでは、偏見の中に帰結する。だから新たなものを見つめながら、真理に近づいていくのだ。
男は溜息をついたあと、最後の一滴で唇を潤し、
限りなき空や流るる星の墓
と歌いながら勘定を済ませた。誰の句かと尋ねると、
「知らん」
と笑いながら、扉を開けて出て行った。
突然静寂が訪れ、大将もコップ酒に口をつけた。何か爽やかな疲労感が残り、それをなだめるために黒龍を注文してみる。大将はしばらく黙り込んでいたが、
「今夜はこれを開けてみるか」
と言って、冷蔵庫の奥から引っ張り出した「餘波(なごり)」と書かれた酒を振舞ってくれた。
黒龍酒造の醸し出す餘波はどこかやさしく、どこか苦みを感じる酒。二合も入らぬ瓶に詰められていたのに、空にした時には、大将も僕もかなり酔った。
「あの人はいつもあんな感じで?」
知らぬ顔を装った大将が、暖簾を下ろしはじめた。その背中は拒絶しているように見えて、もっと尋ねて欲しいと言っているようでもあった。僕は終電を確認し、空席になったままの隣席に目をやった。
「俳諧師とでも呼べばいいのかな。」
大将がようやく呟く。
「奴を知りたければまたおいで。」
赤提灯の燈が消えた。
其の四「獺祭」
帰宅後、酔いの醒めぬままパソコンを開いた。俳句と俳諧の違いを知りたかったが、酔いもあってかよく分からない。
そもそも明治になるまでは「俳諧」が幅を利かせていた。俳諧というものは、その名の通りおもしろみを追求するもので、十世紀ころに名を得た誹諧歌に語源がある。本来は、「俳諧の連歌」の中で発展してきたもので、句を幾つも詠み連ねたものを指すものであった。最初の句である「発句」は俳諧の要であり、俳人たちはそこに力を注ぎ、多くの名句を生み出している。
しかし、異なる文化の流入が、それまでのおもしろみを陳腐なものに変えてしまった。正岡子規はここに登場し、過去の趣向を作為的であると断じて「月並」とし、「俳句」の世界を切り開いたのである。
子規は、ことばを絵画に置き換えた。その試みは、夢想の中に閉じ込められた風景を、ことばによって眼前に再構築すること。ジャポニズムが広がりつつある海外と対をなすように、明治の文化人は西洋がもたらした「写生」を合言葉に「俳句」を捻り、意識改革を推し進めた。
もっとも、伝統の壁は厚い。子規出現から百年あまり経過した現在でも、「月並」は排除されることなくむしろ増殖。現代に至っては、子規以前の「俳諧」と子規以降の「俳句」の間に境はなくなり、季題を含む五七五は概ね「俳句」の名で呼ばれる。
―――ネットで分かったことは以上であった。
獺の祭も過ぎぬ朧月 子規
その日、久しぶりに暖簾を潜った。酒のあては俳句。調べた子規のことを話すと大将は、「獺祭」の栓を抜いた。
「これは三割九分。子規を語るなら丁度いい。」
大将の言うことがよく分からずポカンとしていると、
「調査不十分だな」
とニヤリと笑う。
酒呑の間でものすごい人気を誇る獺祭は、低迷していた日本酒業界に変革をもたらしたことでも知られる。「三割九分」は入門編とでも言うべきもので、酒臭さを敬遠していた洋酒党にも、旨い日本酒として受け入れられているのだ。
もちろん、それくらいのことは知っている。
「この酒には子規へのリスペクトがある。」
「子規は酒豪だったので?」
「いや、全く逆だ。たった一合で酔っ払って、試験勉強が出来なかったというエピソードもある。」
そんな子規が獺祭誕生に一役買っているという。それは、一個の文芸家の枠にとらわれない巨人の足跡・・・
果たして子規の句が芭蕉ほど評価されているのかと言えば、そうではない。子規の後に続く数多の俳人と比べても、その表現力が抜きん出ているとは言えないだろう。
子規の最大の功績は、枯れぬ情熱による歴史の見極め。唐の文学者に擬して「獺祭書屋主人」と称するほどの勉強力により、新たな時代の方向性を決定づけたのだ。つまり、古典の何たるかを追求し、西洋からの荒波に耐え得るだけの地盤を日本文学に付与したのだ。その業績は、過去を再評価する契機ともなった。
俳諧と俳句のあいだに境界がないのは、ある意味で子規の功績だとも言えるだろう。古典の窓を風に向かって解放することで、本来なら瓦解したかもしれない古来の文化を昇華させ、守ったのである。
純米大吟醸・獺祭は、そんな子規からインスピレーションを受けた酒である。傾いていた蔵を立て直した現会長は、子規の故郷で学び、不屈の精神を養った。
獺祭の人気は、フルーティーな旨みが支えている。しかし、その人気が定着した最大の理由は、日本酒の伝統を守りつつも科学的手法を積極的に取り入れたこと。結果、良質な日本酒を安定品質で提供することに成功し、ファンになった消費者を残念な気持ちにさせない。
其の五「男山」
「大将、よく知っているね。」
「なに、うけうりだよ。」
あいつの言っていることだから信憑性は保証しないと前置きし、「俳句」の名称自体は既に松尾芭蕉の時代に存在していたことを教えてくれた。それは、川柳につながる前句附にも適用。滑稽を表す「俳」の意味を考えた場合、
「川柳こそが俳句と呼ぶにふさわしいのかもしれない」
と笑いつつ・・・。
川柳は、江戸時代中期に活躍した柄井川柳の個人名を冠するジャンルだ。俳句と同じく俳諧の流れを汲むが、俳句が発句から進化したのに対し、川柳は前句附をベースにしている。つまり、下の句(七七)で出された題目に対して上の句を付けるもの。
柄井川柳は前句附興行で身を立て、点者として名を成した。芭蕉に遅れること約半世紀。1765年に選考句を収めた「誹風柳多留」を刊行し、「川柳」の名が定着することとなる。辞世として伝わる句は、川柳の興隆を見透かしているようでもある。
木枯らしや跡で芽をふけ川柳
突然扉が音を立て、ぬっと顔が現われた。
「不十分だな。」
射刺すような眼を大将に向けながら、隣に座る男。その迫力に気圧されてのけ反ると、
「気の強さ江戸でへこまぬ男山・・・」
と口遊みながら酒を注文。その歌は何かと尋ねると、「江戸時代の川柳だよ」と眼玉をぎょろりと動かした。1826年の柳多留に収められているこの川柳は、現代にも残るブランド「男山」が、当時大人気だったことを伺わせる資料ともなっている。
かつて、江戸幕府公認の御免酒にも指定された男山。酒としては剣菱と並び川柳のネタとなり、その名は現代にまで轟く。しかし、今もブランドが残るとは言え、もはや江戸時代のそれではない。
男山を醸造した木綿屋山本本家は伊丹に蔵を構え、遠縁にあたる八幡太郎義家ゆかりの石清水八幡宮にあやかり「男山」の銘を用いた。その酒は「下り酒」として江戸で大評判となり、「下らない」の語源になったという説もある。つまり、男山に代表される上方の酒以外は、取るに足らないつまらないものとして「下らない」の言葉があてがわれたのだと。
けれども、川柳が伝えるのは時代の流れ。それほどまでの人気を博してさえも、明治期に血脈は絶え、もはや好んで詠まれることもなくなった。ただ、暖簾分けにより全国に分散したブランドが、今も地方の男山を醸す。中でも旭川の酒造は本家公認の男山として知られ、かつての屋号を冠した「木綿屋」などを製造販売している。
その酒を注ぎながら、赤ら顔の男が吠える。
「川柳は社会を写す。対して俳句はどうだ?」
其の六「白雪」
鰯雲ひとに告ぐべきことならず 楸邨
俳句の歴史は、試行錯誤の連続だ。子規の唱えた写生がむしろ足枷となり、哲学が欠落した言葉の羅列が横行。文学者・桑原武夫氏に第二芸術と揶揄されて、反論に窮した終戦直後の記憶もある。
そんな中でも生きながらえたのは、句会を中心とする座の文芸としての性格を有しているからだろう。言わば、文学というよりもゲームのような面白みが、多くの人を引き付ける。だが、それもまた芸術から乖離する要因だ。
川柳は、既に芸術性を捨て去っている。それ故に自由だ。自由に日常を謳い、自由に明日を標榜する。あたかも一枚のポスターのように。
俳句は静物画である。そのバックボーンは個人の美意識にあり、秘められた感情の暗躍を許す。故に、写実を志そうともデフォルメされ、そのかたちは心象の中に収束。そこでの景色を共有しようとすれば即ち、他者との間にズレが生じて、批評の嵐に晒される。
もっとも、そのズレこそが俳句の面白みともいう。川柳ならば、表現対象の輪郭は明確である。その輪郭をなぞれば、誰もが同じものを想起する。つまり川柳は、他者との同時性を見出すツール。そのような芸事を俳句で実現しようとすれば、陳腐な作品に成り果てるだろう。
冒頭は、社会性俳句を切り開いたとも言われる加藤楸邨の句。社会性俳句と言えども、その中に現れる風景には「正義」の如き主張がない。かくなるものは所詮、自己を擁護する言い訳でしかない。俳句は只、自らの立ち位置を見つめる静けさを漂わせるのみ。
「俳句は自己を写しとる・・・。」
男はそう言いながら、懐から取り出した古事記をパラパラとめくる。
「果たしてその精神は、この時代から受け継がれてきたものなのだろうか?」
唐突に課題を残して、男は暖簾の向うに消え去った。カウンターの向うに目をやると、腕組みをして天上を見上げる大将がいる。
「あいつの言うことはいつも、雲を掴むようなものだな・・・。」
やがてクスクスと笑い始めて、目の前に寸胴のボトルを置いた。そのボトルには、「江戸元禄の酒」と書かれており、「白雪」の銘が入っていた。
「男山は衰退しても、白雪は連綿と歴史を醸し出している。」
白雪は、1550年創業の小西酒造のブランド。男山と同じく伊丹の酒で、現存する最古の日本酒銘柄として知られている。そして今も、「江戸元禄の酒」として芭蕉の時代の味わいを残しているのだ。
もっとも、その赤茶けた液体には、変化しきれない現状を過去の栄光で照らし出したかのような、悲哀の色を感じ取る。そう、それを敢えて醸し出す酒造に時代の落伍者のレッテルを貼り、僕は、注がれたコップをゆっくりと持ち上げていくのだ。
だが、口に含めばどうだ。予想に反してふくよかな甘みが押し寄せてくる。現代人が好む辛口とは一線を画す味わいながら、不思議な引力を持つ酒。
「どうだ、旨いだろ?」
大将が、したり顔をこちらに向けた。
「酒は、時間によって磨き上げられたものではない。嗜好の変化に応じて、時代時代のうまみが醸し出されたんだよ。」
そして、変化に意味を見出すもののみが、次代に生き残るのだ。
其の七「三文字」
ところで、かつて日本一の酒どころであった伊丹の地は、伊丹風俳諧が起こったことでも知られている。池田宗旦が開いた也雲軒が核となり、裕福な酒造家を中心に文芸が盛んになった。
そのような中から、「東の芭蕉、西の鬼貫」とも讃えられた上島鬼貫が生まれている。鬼貫の生家は油谷の屋号で知られ、今はなき「三文字」を醸す大きな酒造だったという。
夏の日のうかんで水の底にさへ
これは鬼貫の句。それをなぞれば、連綿と現代に繋がる精神に触れられよう。心の内が鮮やかに浮きあがってくる。
「しかし、古事記は多分に政治的な書物だろうからな・・・」
大将は、棚に立てかけてあったハードカバーを手に取り、記されている幾つかの歌を声にする。
「あいつは、歌の起源が呪と伝にあると言っていたよ。」
「呪と伝?」
「呪文と伝承だよ。」
あの人は、古代の事業に際する言挙げが、和歌の成立に大いに影響していたと考えている。言挙げとは、言霊信仰を基にする神々への祈り。倭建(ヤマトタケル)の慢心を映すものとして現われたと言われているが、本来の初出は、伊耶那岐(イザナキ)と伊耶那美(イザナミ)の美斗の麻具波比(ミトノマグワイ)時の掛け合いと見ていいのではなかろうか。この時、言葉を発する順番を違えたことで、悪しき結果がもたらされたとされている。
人麻呂は我国を「言霊の幸ふ国」と謳ったが、その言霊の正体は、使われ方次第で恐ろしい結果をもたらすもの。それを忌避するための型として生まれたのが、和歌につながる歌謡ではなかったろうか・・・
その夜、大将の話を長く聞いていたような気がする。しかし、酔っぱらっていて記憶が定かではない。ただ、終電を待つホームで、言霊の発動を促すというコトバ、
「あなにやし・・・」
を連呼していた。
翌朝、何かが憑依したのか、頭が非常に重かった。けれども、その重い頭を持ち上げて、最近買った古事記を捲った。彼はそれを歌謡物語だと解釈しているそうだが、「やはり歴史書だよ」と、大将は笑った。たしかに二日酔いの頭では、そのストーリーを解き明かすことなど出来はしない。
改めて、古事記の歌の数々に触れてみる。なるほど、重要な場面場面に歌がある。五月蠅なす神々のこころを、縫い合わせるかのように。
むかし、日本という国の定義を問われたことがあった。憲法だの国境だのを取り出して答えてみたが、思うような表現はできなかった。今思えば、大和言葉の幸うところこそが、日本という国なのかもしれない。それは言霊となり、大和魂の三文字を醸し出す・・・
其の八「白鷹」
だが待てよ。これでは答えになってはいない。神々の歌には言霊に寄せるものがあるが、果たして現代俳句において、それを意識することがあるのだろうか?
考えるほどに、あの人の残していった課題には「No」と答えざるを得ない。太古の歌を祈りとするなら、現代俳句はこころの叫び、あるいは呟きとでもいうようなもの。心を突き詰めることなど、神には必要とするはずもなかろう。だから、
「己を見つめる精神は、神代から受け継がれてきたものなのか?」
という問いに「Yes」とは言えない。
ところで何故、ひとは自らのこころを歌うのか?新たな疑問が湧いてきて、飛び出す夜道に明かりを求める。ひょっとすればそれは、背負いこんだものを他者に解き明かしてもらうためなのかもしれないと思い始めた時、大将の暖簾が目に入る。
カウンターに腰かけると同時に置かれた酒は、神宮御料酒「白鷹」。そして大将が、
元日や神代のことも思はるる
と独吟。呆気にとられていると、
「どうだい、答えは出たかい?」
と笑い始めた。
先の句は、荒木田守武の句である。俳諧の黎明期にある室町時代、1536年に詠まれたもの。「俳諧之連歌独吟千句」により俳諧の基礎を固めたことで、俳祖と呼ばれる守武。伊勢神宮の神官だったことでも知られているが、そのような人物がこれを歌ってしまうのである。
暗に、神代と今生の断絶を詠んだこの十七文字。神とともに在るとされる者がそれを認めてしまうところに、俳諧としての面白みが生じるのかも知れないが、何とも言えぬ味気なさが漂う。
兎にも角にも、この句は単なる呟きである。自らの現状を申し述べたに過ぎない。耳にしてその可笑しさに気付き、笑みを浮かべる者はあるのかもしれないが、言葉は詠み人の心中を離れることなく、いかなるものも動かしはしない。やはり、太古の歌との間には、高い壁が存在する。そう、人と神との間には、越えることのできない線が引かれているのだ。
人とは、無明を徘徊する独法師・・・
猪口の酒を流し込むと、苦味ばかりが押し寄せてきた。なんだか一気に醒めてしまって、ぼんやり天を仰ぎ見る。するとその時、表の暖簾がはためいて、風が店を駆け抜けた。
「何故、他者を動かす必要があるんだい?」
背後に轟く男の怒声。
「おまえは全く分かっちゃいない!」
第一部「俳家の酒」完 第二部「酒折の歌」(近日公開)へ続く
監修:Rockets