俳諧師は狼男のようなもの。あの芭蕉も月に狂い、松島まで足を運んで涙を飲んだ。
月には、人を狂わせる何かがある。語源も「憑」にあるというくらいに…
しかし、古代日本での扱いはつれない。古事記における月の神「ツクヨミ」は三貴神の一柱とされるものの、生まれてすぐに夜の食国の統治を委任されたまま、その後は全く登場しなくなる。それならばと、受け継がれてきた信仰に目を向けてみても、ツクヨミを御祭神として祀る神社は、驚くほどに数少ない。皇祖神アマテラスに対抗したスサノオや、オオクニヌシと比較してもだ。
日本で月がクローズアップされるようになったのは、平安時代からだと言われている。中秋節を重んじた唐の影響で、日本でもそれに倣って八月十五日に「月の宴」が催されるようになった。ここに、月イコール秋の景物という認識も生まれたのである。
それまでは、秋を代表する景物は「萩」や「紅葉」であり、万葉集に歌われた額田王の熟田津の月も、春一月のものであった。それが、新古今集の時代まで下ると秋を鮮やかに彩るようになり、連歌の時代になって、雪月花と愛でられ珍重されるようになった。そして俳諧の時代になって、花とともに定座に据えられたのである。
この過程で「月」は、仲秋の名物から三秋の景物へと進化を果たした。古くから歌われてきた七夕の月や、日本独自につくられた後の月をも抱合し、秋を通じて愛で続ける対象となったのである。因みに「後の月」とは、陰暦九月十三日の月である。徒然草に「八月十五日、九月十三日は婁宿なり。この宿、清明なる故に月をもてあそぶに良夜とす」とある。
今日、俳句の世界では「月」と「名月」は区別する。「月」は三秋の季語で、秋の清けさを映すもの。「名月」は仲秋の季語で、特別の感慨を詠みこむもの。そのそれぞれから派生する季語も膨大な数にのぼり、俳人たちは夜ごと空を見上げて唸るのだ。
やはり我らは狼男である。変化に怯むことなく吠え続ける…
月影や 道化師去りし砂利の上 (六)
◆ 松島の月を詠むことを大きな目的として奥の細道に旅立った松尾芭蕉(1689年)は、松島における月の句を残していない。「松島やああ松島や松島や」と詠んだという話も伝わるが、田原坊の「松島やさて松島や松島や」がもとになって後に別人によって作られたものだという。
◆ ツクヨミは「月読」と書き、暦に関係する神だという説がある。「ツキ」の元は「ツク」で、「付」「時」「次」などの言葉を生んだとも言われている。「尽」も関係あると言われるが、これは「付」に「切」をつけて「つきる」としたものの転訛ではなかろうか。
◆ 最初に「中秋」が記されるのは「周礼」(1世紀頃?)で、観月行事としては唐代に広まり、漢詩に多く詠まれた。名詩が伝わり菅原道真(845~903)らが倣ったことで月次屏風の題材となり、康保三年(966年)八月十五日の夜には清涼殿で月の宴が催されている(栄花物語)。
◆ 「躬恒集」の延喜十九年(919年)九月十三日に、宴を催し歌を奉ったという記述があり、これが十三夜の月見の始まりではないかと言われている。九月十三日の「婁宿」とは、中国の天文学でいう二十八宿のひとつ。なお、満月を「三五」と言うのに対し、十三夜は「九四」と表現したとも言われ、この日の月を「奇し」に掛けて愛でたのかもしれない。