蛾は美しい

 人はその虫に「我」を背負わせて忌み嫌う。俳人は、火に入るさまを憐れみながら「火取虫」と呼ぶ。その響きは「孤独」と結びつき、時に、妖しき炎と巻き上がる…

 光へと 火蛾のいのちの燃え立ちて 


 現代では、漢字を音読みにした「蛾(が)」の名で呼ばれる夏の虫。万葉集にも「蛾」(*1)の文字は出てくるが、通例では「ひむし」と読む。古事記にも「ひむし」(*2)が登場し、「鵝」の字を当てて蛾の事とする。古くから「火」との関りが大きかった昆虫であり、仏教の広がりとともに、身を滅ぼす者の象徴として取り上げられるようになった。
 「火取虫」の名はおそらく、平安時代に現れる香炉「火取母」などの普及により、使われ始めたものであろう。火を見つめる時間が増える中で、すすんで身を焼く姿を「火虫」と呼ぶ軽さを、憎んでつけた名前なのではないかと思えてくる。

 ところで蛾は、なぜ火の中に飛び込むのだろうか。いまだに決定的な説は出ていないが、有力なものに、光の位置を目印にして飛翔しているというものがある。通常は、それが月などの遥か遠くの光体であり、移動をしても方向角に変化は生じないが、前方にある近くのものであれば、方向角を保とうとするほどに接近することになってしまう。よって、炎を目印とした蛾は、螺旋を描くように火の中に吸い込まれてしまうのだと。
 しかし、蛾の走光性(*3)は幼虫の代から備わっており、成長に応じて反応に有意な変化が見られることが知られている。という事は、それはターニングポイントを照らし出すものであり、命に組み込まれたプログラムの起動条件になっていると考えることも可能であろう。


 変態して外部環境に適応していくものが動物だとすれば、人類が火を扱い始めて何十万年という歳月が経過した今日、火に入ることには何らかの進化上の理由を求めることも必要であろう。つまり蛾にとって火は、災害要因などではなく、目的を果たすために利用される最後の道具として存在するのではないか…

 個人の生命が尊重される世界では、それは否定されることなのかもしれない。しかし命というものは、個を生かすために与えられたものではない。もしもそうだとするなら、死は存在しなかっただろう。
 身を焦がすということは、死を超越した場所に至るための手段である。燃え盛る炎の中に投げ込まれた使命を、蛾は躊躇うことなく拾い上げる。それは、個にとっては痛みでしかないだろうが、宇宙の進展にとっては、欠かすことのできない「行」であるに違いない。


 夏の夜、またも炎が燃えあがる。火蛾の命は美しい。


*1)万葉集(奈良時代末)巻十三挽歌の3336番に「蛾葉之衣」があり、「ひむしのころも」と解釈する。絹の衣のことであり、「蛾葉」はカイコガを指す。主にカイコガを意味する「ひひる」と読んだとの説もある。灯蛾「ひむし」は「火虫」、「ひひる」は「火入る」が語源になっているとの説がある。「が」の読みが定着したのは室町時代とも。

*2)古事記(712年)の「大国主神」の項の少名毘古那神登場の際に、少名毘古那神は鵝の皮を着物にしていたとある。「鵝」が何を指すのかは諸説あるが、蛾のことではないかと言われている。

*3)光に対する反応をいう。光に対して向かっていく習性を「正の走光性」、光から離れていく習性を「負の走光性」と呼ぶ。ヒトリガなどの蛾の成虫は、正の走光性があるとされるが、光源を後方に捉えた場合を想定すると、「目印説」では説明が不十分であろう。


俳句の季節

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