伝統色と日本のこころ

 同じ風景を見ても、こころの景色は十人十色。ならば、目に映り込む色彩は、人によって見え方が違うのではないか。例えば「Red」と表現するものが、他人にとっては自分にとっての「Blue」なのではないか…


 日本は色彩にあふれる国である。「色名大辞典」(日本色彩研究所編1954年)には、日本の伝統色として2130種が記されている。こんなにも多色が見分けられるのだろうかとも思うのだが、今でもそれは増殖中。
 この国では、「顔色を見る」の表現があるように、色彩の中に「情」を汲み取る。それが「多彩」な文化を育んできた一因であり、膨れ上がったがゆえに、「曖昧」をも許容する社会のベースとなった。
 おそらくこれは、変化の激しい風土に起因するものであろう。変化がもたらす「混沌」を多彩とする、結果的意味合いではない。抗えぬ大地のパワーを神と崇め、その情を汲み取ることで指針を定め、厳しい自然を生き抜こうとしてきた先人たちの知恵。
 神の情は色に宿り、刻々と変化していく。より良き未来を生きるためには、その色彩を「情報」として見分ける必要がある。伝統色とは、そのためのツールなのだ。

 しかし、日本の根源色は4種 ――― 青・白・赤・黒。末尾に「い」をつけただけで形容詞となるこれらの色が、全ての色を包括する。つまり青と白(*1)、赤と黒(*2)で対をなし、有無と明暗を表現しながら、どのような色彩をも取り込んでしまうのだ。
 このシンプルな構造が、無尽蔵な広がりがもたらすはずの混乱を防止し、並立してモノの輪郭をなぞるだけだった色彩に意味を与えた。それは、その色彩を纏う対象の「気」を引き出し、根元色へと還元する。そうして伝統色は、「情」を司るに十分な力を備えたのだ。


 色名は、歴史が培ってきた「情」を引き出す。脳に映る色彩によって、個人の感覚に作用する刺激が異なったとしても、色名を用いて表現すれば、他者と気持ちを共有できる。
 現在、コンピューターの世界では、24ビットで1677万7216色が表現できる。機械的に付けられたカラーコードでは、色は意味を持たない。それが区分に資するものでしかないのに対し、色名を用いて向こうを見る時、世界は時空を超えてつながり、やがて何かを語り始める。


*1)「青」は本来、白と黒の間の広い範囲の色を指す。「白」は無地を指す。染色に関連して、青と白を対比させて有無を表現するようになったものかもしれない。一例として「青和幣」「白和幣」がある。
*2)「赤」は「明るい」、「黒」は「暗い」に基づく。


俳句の季節

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