間違やすい季語 鳥雲の春と秋

 中緯度にある日本は、鳥たちの交叉点。四方から流れて来ては、自由に空を駆け巡る。見上げると、視界のどこかに影があり、飛鳥人はその声と姿を追って時を悟った。
 よって、鳥の囀りは和歌にしみつき、我国の成り立ちを考える上では欠かせないものとなっている。しかしその裏では、言葉の衝突が発生してもいた…


 「鳥雲」という言葉がある。一般には「ちょううん」と読んで、空に群がった鳥が雲のように見えることを言う。この景は主に、秋夕に塒へと向かう椋鳥の大群を指すもので、新潮社の俳諧歳時記(1951年)では秋の季語に分類している。けれども俳句の世界では、「とりくも」と読ませて春の季語にするのが普通。
 漢字の組み合わせから言えば、鳥が作った雲、あるいは鳥型の雲という意にするのが適切であろうが、この春の季語となる雲は一寸特殊で、鳥の向かう先を表したものとなる。

 元になる季語は「鳥雲に」である。連歌寄合の「連珠合璧集」(一条兼良1476年)に「雲に入る鳥」があり、「暮春の心」に類することから、その心を受けて生まれた季語である。もっとも、その心情に影響したのは「和漢朗詠集」(11世紀)にある橘在列の「留春不用関城固 花落随風鳥入雲(*1)」であろう。過ぎ行く春を、散る花と帰る鳥に託して惜しんだもの。大伴家持が万葉集(8世紀)に「つばめ来る時になりぬと雁がねは 国偲ひつつ雲隠り鳴く(*2)」と歌った無常の世界を、より身近な形に置きかえた。


 思えば秋。茜雲を隠すように群れ飛ぶ椋鳥は、ひとときも留まることなく変化して行く。その形を目で追えば、「自由」とは、「迷妄」が言葉を変えただけのものに過ぎないのではないかと思えてくる。欲望が導く、止まり木の無い生き地獄 ――― それを、歌人は嫌ったに違いない。そして、あえて無常へと帰る道を選んだだろう。
 人は、定めの中に生きていく…

 鳥雲に ひとは黙して摩天楼 


*1)春を留めようと門戸を閉ざしても、花は風に散り、鳥は雲の向こうに飛んでいく。
*2)常世に暮らす燕がやってくる。雁は故郷を偲び泣き、雲隠れする。


俳句の季節

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