2022年10月25日の科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに、動物の音響コミュニケーションに関する論文が寄せられている。その研究対象には亀も含まれ、「亀鳴く」を実証する結果が提示された。
和歌の世界では、新撰和歌六帖(1243年)第三「水」に藤原為家(*1)が「かはこしのをちのたなかのゆふやみに なにそときけはかめのなくなる」と歌い、古くから亀は鳴くものとなっていた。さらには、これを典拠に「亀鳴く」が季語となり、俳人は春になる度に耳を兎のようにそばだてなければならなかった。しかし、写生を志した正岡子規は挫折したのか、亀鳴く俳句をついに残さなかった。
このように、俳人を悩ませてきた春であるが、これからは胸を張って朗詠できるだろう。
萬年の孤独の沼や亀の鳴く (六)
そもそも、亀が鳴かないとされてきたのは、声帯を持たないからであった。しかし、亀と同じく声帯を持たない蝉や鈴虫は、別の器官を利用して高らかに鳴く。研究者が注目していたのは、その発声方法ではなく、音によるコミュニケーションがあるかどうかなのだ。
どうやら亀は、飼育者が以前から指摘していたように、シューとかゴロゴロとか、様々な音を出して鳴くらしい。その「鳴き声」を、情報として受け取っている可能性が大きくなったというのが、この研究の主旨である。
もっとも俳人は、個体間での情報交換などには興味を持たない。己の胸にどのように響くかが重要で、時に風の音にさえ「鳴き声」を聴く。それは、自然に溢れ出る心の叫びのようなもので、目から漏れ出したものは「涙」となる。だから、「鳴く」と「泣く」は発音を同じくするのだ。
思えば、亀は「泣く」。夏になれば、砂浜に現れた亀が涙を流しながら卵を産む。これは、よく知られた生命の営みである。よって、五感による観察方法に依れば、「亀泣く」とした方が季語としては素直に受け入れられたであろう。
ところで、「亀鳴く」が生まれた新撰和歌六帖を捲れば、「鳴く」でも「泣く」でもなく、ひらがな表記で「なくなる」とある。本歌を意訳するなら、「三途の川を渡る長旅の最中の夕闇に聞いた。長寿と言われた亀も亡くなってしまったと…」と取ることも可能であろう。つまり、ここに歌われたのは恐らく無常の世界だ。
しかし歌人は、背後に横たわる哲学をオブラートに包み、自ら生きる世界に意識を集中する。よって、「きけは(聞けば)」が「なくなる(鳴くなる)」を導き、「亀鳴く」という言葉が和歌の世界に生まれるのである。
この国では、命あるもの全て、痛みを内包する声を持つ。そして歌人の耳に入れば、そこにあるどのような目的も一律に哀調を帯びた音階となり、言霊の中に記録されるのだ。ひとつの命の輝きとして。
歌人は、声に表れる思いに肩入れしない。ただ、その美を明日に伝える…
*1)夫木和歌抄(1310年頃)巻二十七「亀」の項に、為兼卿で「河こしのみちのなかちの夕やみに なにそときけは亀のなくなる」とあるが、現代では出典との比較で藤原為家の作とされている。ところで、「亀鳴く」は春の季語として定着しているが、新撰和歌六帖でも夫木和歌抄でも、季節についての言及はない。新撰和歌六帖の「田中の夕闇に」で考えると、本来は田に水が入る夏の和歌になるだろうが、河を三途の川と捉えるなら春彼岸の和歌か。