日本には「四季」があるというが、本当にそうだろうか。歳時記を捲るほどに、その疑問は大きくなる。日本国民の季節感など、実はいい加減なものなのではないか…
古くから繰り返されてきた改暦も、四季の混乱要因だろう。明治の改暦では、「新春」を「冬」の中に押し込めてしまうという荒業をも繰り出した。
それは、明治6年(1873年)1月1日のこと。太陰太陽暦を廃止し太陽暦へと移行するため、旧来ならば明治5年(1872年)12月3日に当たる日を元日とした。そうすることが決まったのは、前月の11月9日。ひと月の準備期間をも与えられず、日本の時間は移り変わった。
太古には、季節が生活を司っていた。人々は、厳しい自然に向き合うために、時の流れの中に暮らしの指標となる名称を組み入れた。それが「春夏秋冬」である。
諸説あるとはいうものの、春の語源は、春耕を表す「墾る(はる)」。夏は、現在の代掻きにつながる「浸漬(なづ)」。秋は、満ちる意で収穫の季節を示した「飽き(あき)」である。そして冬は「増ゆ(ふゆ)」。むつまじき睦月(むつき)に交わった夫婦は、十月十日の冬となり、喜びの時を迎えるのである(*1)。
このように、生活を計画的に組み立て、必要な行動を起こすために四季の概念が生まれ、国土には季節が巡るようになったのである。
しかし、積み上げてきた実績や豊かさが、計画のタガを緩めた。今や四季は感覚的なもの。かつて内包していた指針としての役割は消え去った。そのため、現代人は四季の余韻をも味わう。つまり、四季の移行は気持ちの上で四立から約1カ月遅れる。
それでも現代人は、いにしえと同じ季節感覚を信じている。それを可能ならしめているのは、現在の「季語」につながる「季の詞」の存在である。それは、景色の中から時期を切り出し、四季に括り付ける「魔法の言葉」である。
ただし、歳時記を捲れば疑問を感じるところも少なくはない。にもかかわらず、俳人はただ淡々と時を詠む。
現代は、気候変動が世界的な懸念事項となる時代。自然は猛威をふるい、緑豊かな日本においてさえも、季節の常識は破壊されている。だからこそ、四季の記憶をとどめ置かなければならない。
生きるということは、神々と向き合うことである。神々は、予想もできない趣向を大地に加える。人にできることは、それを記録し、明日の糧とすることである。
季語の中には、古歌の時代から積み上げられてきた様々な情報が組み込まれている。俳句を詠む時、そこに面白さを感じるなら、それは何らかの変化が生じていることを指し示すものなのかもしれない。
俳人は時を詠む。過去と未来をつなぐために。
*1)出雲の神在月(旧暦十月)、神々が出雲大社に集い神議りが行われるというが、それは縁結びの話ばかりではないだろう。冥界の神である大国主は、新生児の担う役割を決め、寿命を定めているに違いない。