バーチャルに片足を取られ、脳内お花畑から存在の再定義が行われるこの時代。リアルが蔑ろにされる世界では、季節などもはやイメージの産物なのかもしれない。
然れば写生を旨とする俳句に居場所はない、、、などと思うなかれ。季語はまさにイメージの産物。その最たるものが「花畑」。
歳時記をめくれば、「花畑」は秋の項に現れる。しかし、花の咲かない季節は無いし、寒天にだって花畑は存在する。それでも、十七文字の中に「花畑」を入れると、俳句は秋に固定されてしまう。
これが「俳諧御傘」(松永貞徳1651年)にまで遡れば、それは「花畠(はなばたけ)」として春に置かれる。「俳諧古今抄」(各務支考1730年)に至って疑問が呈され、「今按ずるに花壇も花畠も決して秋に定べきなり」とされるが、俳諧歳時記栞草(1851年)では、「花圃(はなばたけ)」として春に「花畠」として秋に、それぞれ分けて立項された。
ただ、秋の季語に定まった現在でも、「花畑」と言えば一般人は春をイメージしがちである。待ち続けた季節を開花に重ねて愛でるのが人情。俳人というものはそれを横目に、暮れゆく季節に揺れる「花畑」に佇み、ものの哀れを感じ取る…
けれども、それも俳句の一面。現代では、高嶺にそよぐ草花を山神のものとして、「お花畑」も生まれた。そして、接頭語ひとつで夏に逆戻り。冷涼な高嶺にあるから、夏にしか咲かないというイメージ。
俳句はやはり、リアルに根差した文芸ではない。そう、頭の中のお花畑は、醸成されてきた文化と眼前の景色とを結び付ける。そうして、詠み手のこころに発見を促すのである。花のある人生を提供するために。
花畑 道ひとすじにみさきへと (六)